安塚街道を歩く
安塚街道は、正式名称は栃木県道184号安塚雀宮線と言います。
壬生町の北東端に位置する安塚と、宇都宮市南部の雀宮とを結んでいます。
その長さは、約3.7kmと短く、普通に歩いて行けば、1時間程度で行ける距離です。
関東平野の北域を東西に横断するルートで、途中幾つかの小河川が、縦断して流れている為、緩やかな登り下りが連続する地形となっています。


概略図中、黄色地に赤字で記されている数値は、国土地理院発行2万5千分1地形図に記されている標高値です。安塚街道は概ね標高85m付近に有り、途中4~5mの登り下りが見られます。
それでは、街道歩きを始めます。スタートは東武宇都宮線の「安塚駅」からです。
私にとって、久しぶりの安塚駅です。駅の様子も大分変わっています。駅舎から栃木方面のホームに行く際は以前は線路を横断していました。栃木行きの電車がホームに入って来た時など、走って電車の前方を通過する格好になり危険でしたが、現在は高架通路が出来ています。


(1978年に撮影した駅構内の様子と、現在の様子です。)
駅前も整備され、ロータリーが造られ、駅前から旧栃木街道を繋ぐ道路も広くなっています。


それでは、早速安塚街道の起点となっている、旧栃木街道の安塚交差点に移動します。
旧栃木街道は、西側にほぼ並行して走る「安塚バイパス道路」が出来たことで、通過車両は街の中に来なくなりました。バイパス道路が出来る前は、宇都宮方面に向かう車線にて、朝の通勤時間帯では、良く渋滞で車の行列が出来ていました。その主な原因はこの安塚交差点に有りました。右折車両が多くて、それがなかなか右折出来ない、結果渋滞となっていたわけです。(私の実感として1km以上になることも、良くありました。)
今では、この交差点では通過する車より、雀宮方向に曲がる車両の方が、圧倒的に多くなっている感じがします。


(左の写真は交差点から北方向を、右の写真は東方向を撮影しています。北方向の直ぐ左側に建つ長屋門は、元安塚宿の本陣だった「島田家」の建物です。
雀宮方向に歩いて行くと、直ぐ左側に大谷石造りの長屋門が有ります。以前はこの門の中に、かんぴょうを干している様子を伺えました。


今、この安塚街道も道路拡幅工事が進み、歩道も整備されてきて、歩くのも安全になりました。
私が初めて、この安塚街道を歩いたのは、50年以上も前のことになりますが、狭くて曲がりくねっていて、砂利道でした。高校を卒業して直ぐ、安塚街道沿いの工場に就職して、初日は安塚駅から歩いて行き、次ぐ日からは自転車通勤にしました。
一度、帰りの電車に間に合わせるため、自転車を飛ばしていた時の事です。突然前輪の車軸が破損したことも有ります。そのころこの道路を何故か「アパッチ街道」などと言った覚えが有ります。
東武線の踏切を渡ると、道路は下りになります。前方に姿川に架かる橋が見えてきます。橋の位置は高くなっているので、登り橋を過ぎれば又下りです。
姿川に架かる現在の「大正橋」は、道路の拡幅に合わせて2008年頃に新しく架け替えられたものです。橋を渡ると宇都宮市に入って行きます。この辺りの姿川左岸の住所は、宇都宮市幕田町下幕田となります。

橋の上から姿川の上流側を望むと、堰が有るのが見えましたので、チョッと寄り道をしたいと思います。

姿川左岸土手上の道を進んで行くと、1基の石碑が見えてきました。「第一堰竣功記念碑」と大書されています。揮毫した人物は、当時の栃木県知事 横川信夫さんです。

碑陰は風化の精で、文字が良く判読できません。冒頭部に「石橋町他二か村土地改良・・・」と有りました。大正橋の下左岸には、近くまで下野市(旧石橋町)が入り込んでいます。
この堰の所で取水した灌漑用水は、三軒幕田の屋敷の間を抜けて南隣の下野市方向に流れています。
栃木土木事務所発行のガイドマップには、この堰の名称は「幕田堰」となっています。
姿川対岸彼方に、日光連山の山々が雄大な姿を見せています。

用水路沿いに、三軒幕田の稲荷神社が有ります。安塚街道に戻ってきました。用水路に架かる橋の名称は、水路脇に祀られた稲荷神社に因んで、「稲荷橋」と命名されています


安塚街道は、三軒幕田の集落を抜けると、針ヶ谷町に変わります。この辺りは水田が広がっています。
遠く南東方向の林の間に、筑波山の特徴ある姿が霞んで見えます。その手前に黒く一筋横に走っている高架は、北関東自動車道です。

進んで行くと、又集落に入ってきます。左手に神社の参道が、奥まで続いています。熊野神社です。


参道入り口横に説明板が建っています。「針ヶ谷の地名の起源」と「熊野神社の由緒」が記されています。それによると針ヶ谷の地名は、<康平六年(平安時代、1063年)、初代宇都宮城主・藤原宗円(宇都宮の祖)は、「前九年の役」(奥州征討)の恩賞として宇都宮大明神(二荒山神社)の座主並びに社務検校を命ぜられ、下野の四郡一万五千町歩の荘園を下賜され、宇都宮城(亀が丘城)を築いた。
宗円の重臣であった針ヶ谷備中守は、戦功抜群であったため、針ヶ谷の地を賜り統治した。その後、この針ヶ谷の氏が地名に成ったという。>又、熊野神社の由緒については、<元亀二年(室町・戦国時代、1571年)、和歌山県熊野山の熊野大社を勧進したと伝えられている。・・」(後略)>と、記されています。
その先を進むと、安塚街道の両側には、梨の果樹園が多く見られるようになります。


この時期はすでに収穫も終わった後の様です。
1977年4月後半頃に、この辺りで撮影した写真は、梨の白い花が満開の頃で、受粉作業をしている様子が伺われました。
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針ヶ谷では、以前はいたる所で、かんぴょう畑が目に入りましたが、最近は殆ど目にすることが出来ません。
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台地の中央部に小さな交差点が有ります。以前はこの角に、駄菓子や日用雑貨等を扱った商店が有りましたが、それも姿を消しました。
その交差点を南に入ると、以前は村社格だった「八幡神社」が有ると言う事で、又一寸寄り道をしていきます。
梨畑の間の細い道を400m程行くと、前方に赤く塗られた鳥居が見えてきます。


八幡神社の由緒は、栃木県神社誌によると、<寛治五(1091)年、清原武衡征伐のため下向した源義家と、兄を助けるために参じた新羅三郎義光が当地で出会った。義家等は土地の豪族針谷長部と謀って逆徒を平定。その後、嘉保元(1094)年に針谷の総鎮守として当社が奉斎された。・・(後略)>と記されています。
尚、神社の社名柱の側面に刻されている「大和川」とは、当時針ヶ谷で盛んであった「草相撲」の横綱で、東京の大相撲にも名を連ねた、醜名「大和川」が寄進したものです。
社殿の横の広場に相撲の土俵が造られています。
又、覆い屋の中の本殿の装飾彫刻も、なかなか素敵なものです。


安塚街道に戻ります。この先で道は下って行きます。

一番低くなった所に、「西川田川」という小河川が流れています。


西川田川に架かる橋の名前は、「はりがや橋」です。地元の名前から命名されました。
橋を渡ると街道は、又、上り坂となります。道は右にカーブしながら、だらだらと登っていきます。両側に工場や商店が多く見られるようになりました。

角にコンビニの有る交差点です。この交差点から北方向に向かう道路が「兵庫塚街道」に成ります。
この辺りが安塚街道が一番高台に当たる所で、昭和の30年代頃まではこの台地周辺には、全く人家は見られませんでした。安塚街道と兵庫塚街道との交差するこの辺りは、戦後まで追いはぎが出るような、雑木林ばかりの所だったようです。今の状態からは到底想像出来ません。

この交差点の周辺に、1960年代の初めに宇都宮市の工業誘致により、次第に工場が建設され始めました。その後周辺に住宅地が広がっていき、昭和59年(1984)4月1日に交差点の北西方向、かつての雑木林だった場所に、宇都宮市立新田小学校が新しく開校しています。校舎の建設の前に、建設予定地に有る「針ヶ谷新田古墳群」の埋蔵文化財の確認のために、現地の発掘調査が行われています。
この兵庫塚街道との交差点の位置が、安塚街道のほぼ中間点に成っています。続けて安塚街道を雀宮に向かって歩いて行きます。
交差点を過ぎると又道は下り坂になります。道路の右側(南側)の工場跡地を中心に現在大きなショッピングモールが出来ています。

高台から下りきったところに、又小河川が流れています。「兵庫川」です。川に沿った低湿地に何時頃か住宅団地が造成され、現在は住宅地に変わっています。
国土地理院2万5千分1地形図にはこの地点の標高表示が83mと記載されています。先ほどの新田小学校の校庭隅に設置された三角点の標高は87.9mと記されていますから、約5m程下がってきたことになります。
兵庫塚の台地を下ったところ、安塚街道の北側から、二筋の水路が道路の下を通過します。
西側の水路は名前が分かりませんが、街道に架かる橋の名前から推定して「中堀」と考えられます。
東側の水路が、「兵庫川」です。一方こちらの橋の名前は分かりません。


(写真左が「中堀」、右側が「兵庫川」)
兵庫川は街道を潜り抜けた後、道路の南側沿いを西に流れ(暗渠なので見えません)、街道の直ぐ南側で中堀と合流します。そこから住宅街を南に流れていきますが、兵庫川となっています。


(安塚街道の南側歩道部分が、鋼板が引き詰められています。おそらく下を兵庫川が流れている。右側の写真は街道南側の兵庫川、下流側から北方向を撮影。中央に写る橋は「中堀橋」、兵庫川は橋の手前で右側から中堀に合流してくる。そして合流後は兵庫川となる。)


(中堀橋の脇に建てられた「兵庫川」の表示板と「さつき一丁目交差点角に建てられた、通りの表示板)
兵庫川を渡った先に有る「さつき一丁目交差点」ですが、何故か道路が直交せず、北に伸びる「みどり野通り」と南に伸びる「さつき通り」がずれて、クランク状に成っています。なぜか新しく住宅地開発した時そうしなかったのか。もしかしたら兵庫川の河道の影響が有ったのか。私の想像だけです。

交差点を過ぎると、道は又上り坂に成ります。

交差点から少し歩いたところで、先ほどの「さつき一丁目交差点」を振り返ると、交差点辺りが一番低くなっている地形が、見て取れます。
しばらく歩いて行くと、又下り坂になってきました。

下がった所に又小河川が流れています。「新川」です。
新川に架かる「東田橋」は、拡幅工事が行われていました。


新川は、元々は農業用水として田川から取水し、開削された徳次郎用水、宝木用水を源流とした人口河川です。下流のさつき三丁目の南端部で、右岸に「兵庫川」が合わさります。更に南流して下野市に入り、上古山にて又右岸に「西川田川」が合流してきます。さらに南流した新川は、下野市下古山で姿川の左岸に流れ込んでいきます。こうして安塚街道で渡った四つの小河川は、姿川にまとまり小山市黒本にて思川左岸に流れ込んでいきます。
新川を渡ると、又道は上り坂へと変わります。安塚街道の終点、国道四号の「安塚街道入口交差点」まで、あと一息に成りました。

以前安塚街道入口部分は、道路が狭くて良く渋滞をしていましたが、現在はここも仝ルの拡幅が行われた。右折車線も有って、広々とした交差点に様変わりしていました。


あちらこちらと寄り道をしましたが、何とか安塚街道の終点までたどり着きました。ここから少し国道四号を北上して、JR宇都宮線の雀宮駅に向かいます。


途中、国道四号線沿いに建つ、「雀宮本陣跡」の石柱と、雀宮駅入口角に残る、「仮本陣芦谷家」の建物などを見て、雀宮駅に到着。1時間程度の行程でしたが、3時間も歩き回っていました。19,106歩でした。結構疲れました。

(ゴールのJR雀宮駅舎)
今回の参考資料:
・国土地理院発行2万5千分1「壬生」令和3年2月1日発行
・栃木県ホームページ「農業農村整備・幕田堰」
・栃木県神社誌(平成18年版)栃木県神社庁発行
・ウィキペディア「新川(栃木県)」
・ゼンリン住宅地図「宇都宮市1」
壬生町の北東端に位置する安塚と、宇都宮市南部の雀宮とを結んでいます。
その長さは、約3.7kmと短く、普通に歩いて行けば、1時間程度で行ける距離です。
関東平野の北域を東西に横断するルートで、途中幾つかの小河川が、縦断して流れている為、緩やかな登り下りが連続する地形となっています。


概略図中、黄色地に赤字で記されている数値は、国土地理院発行2万5千分1地形図に記されている標高値です。安塚街道は概ね標高85m付近に有り、途中4~5mの登り下りが見られます。
それでは、街道歩きを始めます。スタートは東武宇都宮線の「安塚駅」からです。
私にとって、久しぶりの安塚駅です。駅の様子も大分変わっています。駅舎から栃木方面のホームに行く際は以前は線路を横断していました。栃木行きの電車がホームに入って来た時など、走って電車の前方を通過する格好になり危険でしたが、現在は高架通路が出来ています。


(1978年に撮影した駅構内の様子と、現在の様子です。)
駅前も整備され、ロータリーが造られ、駅前から旧栃木街道を繋ぐ道路も広くなっています。


それでは、早速安塚街道の起点となっている、旧栃木街道の安塚交差点に移動します。
旧栃木街道は、西側にほぼ並行して走る「安塚バイパス道路」が出来たことで、通過車両は街の中に来なくなりました。バイパス道路が出来る前は、宇都宮方面に向かう車線にて、朝の通勤時間帯では、良く渋滞で車の行列が出来ていました。その主な原因はこの安塚交差点に有りました。右折車両が多くて、それがなかなか右折出来ない、結果渋滞となっていたわけです。(私の実感として1km以上になることも、良くありました。)
今では、この交差点では通過する車より、雀宮方向に曲がる車両の方が、圧倒的に多くなっている感じがします。


(左の写真は交差点から北方向を、右の写真は東方向を撮影しています。北方向の直ぐ左側に建つ長屋門は、元安塚宿の本陣だった「島田家」の建物です。
雀宮方向に歩いて行くと、直ぐ左側に大谷石造りの長屋門が有ります。以前はこの門の中に、かんぴょうを干している様子を伺えました。


今、この安塚街道も道路拡幅工事が進み、歩道も整備されてきて、歩くのも安全になりました。
私が初めて、この安塚街道を歩いたのは、50年以上も前のことになりますが、狭くて曲がりくねっていて、砂利道でした。高校を卒業して直ぐ、安塚街道沿いの工場に就職して、初日は安塚駅から歩いて行き、次ぐ日からは自転車通勤にしました。
一度、帰りの電車に間に合わせるため、自転車を飛ばしていた時の事です。突然前輪の車軸が破損したことも有ります。そのころこの道路を何故か「アパッチ街道」などと言った覚えが有ります。
東武線の踏切を渡ると、道路は下りになります。前方に姿川に架かる橋が見えてきます。橋の位置は高くなっているので、登り橋を過ぎれば又下りです。
姿川に架かる現在の「大正橋」は、道路の拡幅に合わせて2008年頃に新しく架け替えられたものです。橋を渡ると宇都宮市に入って行きます。この辺りの姿川左岸の住所は、宇都宮市幕田町下幕田となります。

橋の上から姿川の上流側を望むと、堰が有るのが見えましたので、チョッと寄り道をしたいと思います。

姿川左岸土手上の道を進んで行くと、1基の石碑が見えてきました。「第一堰竣功記念碑」と大書されています。揮毫した人物は、当時の栃木県知事 横川信夫さんです。

碑陰は風化の精で、文字が良く判読できません。冒頭部に「石橋町他二か村土地改良・・・」と有りました。大正橋の下左岸には、近くまで下野市(旧石橋町)が入り込んでいます。
この堰の所で取水した灌漑用水は、三軒幕田の屋敷の間を抜けて南隣の下野市方向に流れています。
栃木土木事務所発行のガイドマップには、この堰の名称は「幕田堰」となっています。
姿川対岸彼方に、日光連山の山々が雄大な姿を見せています。

用水路沿いに、三軒幕田の稲荷神社が有ります。安塚街道に戻ってきました。用水路に架かる橋の名称は、水路脇に祀られた稲荷神社に因んで、「稲荷橋」と命名されています


安塚街道は、三軒幕田の集落を抜けると、針ヶ谷町に変わります。この辺りは水田が広がっています。
遠く南東方向の林の間に、筑波山の特徴ある姿が霞んで見えます。その手前に黒く一筋横に走っている高架は、北関東自動車道です。

進んで行くと、又集落に入ってきます。左手に神社の参道が、奥まで続いています。熊野神社です。


参道入り口横に説明板が建っています。「針ヶ谷の地名の起源」と「熊野神社の由緒」が記されています。それによると針ヶ谷の地名は、<康平六年(平安時代、1063年)、初代宇都宮城主・藤原宗円(宇都宮の祖)は、「前九年の役」(奥州征討)の恩賞として宇都宮大明神(二荒山神社)の座主並びに社務検校を命ぜられ、下野の四郡一万五千町歩の荘園を下賜され、宇都宮城(亀が丘城)を築いた。
宗円の重臣であった針ヶ谷備中守は、戦功抜群であったため、針ヶ谷の地を賜り統治した。その後、この針ヶ谷の氏が地名に成ったという。>又、熊野神社の由緒については、<元亀二年(室町・戦国時代、1571年)、和歌山県熊野山の熊野大社を勧進したと伝えられている。・・」(後略)>と、記されています。
その先を進むと、安塚街道の両側には、梨の果樹園が多く見られるようになります。


この時期はすでに収穫も終わった後の様です。
1977年4月後半頃に、この辺りで撮影した写真は、梨の白い花が満開の頃で、受粉作業をしている様子が伺われました。
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針ヶ谷では、以前はいたる所で、かんぴょう畑が目に入りましたが、最近は殆ど目にすることが出来ません。
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台地の中央部に小さな交差点が有ります。以前はこの角に、駄菓子や日用雑貨等を扱った商店が有りましたが、それも姿を消しました。
その交差点を南に入ると、以前は村社格だった「八幡神社」が有ると言う事で、又一寸寄り道をしていきます。
梨畑の間の細い道を400m程行くと、前方に赤く塗られた鳥居が見えてきます。


八幡神社の由緒は、栃木県神社誌によると、<寛治五(1091)年、清原武衡征伐のため下向した源義家と、兄を助けるために参じた新羅三郎義光が当地で出会った。義家等は土地の豪族針谷長部と謀って逆徒を平定。その後、嘉保元(1094)年に針谷の総鎮守として当社が奉斎された。・・(後略)>と記されています。
尚、神社の社名柱の側面に刻されている「大和川」とは、当時針ヶ谷で盛んであった「草相撲」の横綱で、東京の大相撲にも名を連ねた、醜名「大和川」が寄進したものです。
社殿の横の広場に相撲の土俵が造られています。
又、覆い屋の中の本殿の装飾彫刻も、なかなか素敵なものです。


安塚街道に戻ります。この先で道は下って行きます。

一番低くなった所に、「西川田川」という小河川が流れています。


西川田川に架かる橋の名前は、「はりがや橋」です。地元の名前から命名されました。
橋を渡ると街道は、又、上り坂となります。道は右にカーブしながら、だらだらと登っていきます。両側に工場や商店が多く見られるようになりました。

角にコンビニの有る交差点です。この交差点から北方向に向かう道路が「兵庫塚街道」に成ります。
この辺りが安塚街道が一番高台に当たる所で、昭和の30年代頃まではこの台地周辺には、全く人家は見られませんでした。安塚街道と兵庫塚街道との交差するこの辺りは、戦後まで追いはぎが出るような、雑木林ばかりの所だったようです。今の状態からは到底想像出来ません。

この交差点の周辺に、1960年代の初めに宇都宮市の工業誘致により、次第に工場が建設され始めました。その後周辺に住宅地が広がっていき、昭和59年(1984)4月1日に交差点の北西方向、かつての雑木林だった場所に、宇都宮市立新田小学校が新しく開校しています。校舎の建設の前に、建設予定地に有る「針ヶ谷新田古墳群」の埋蔵文化財の確認のために、現地の発掘調査が行われています。
この兵庫塚街道との交差点の位置が、安塚街道のほぼ中間点に成っています。続けて安塚街道を雀宮に向かって歩いて行きます。
交差点を過ぎると又道は下り坂になります。道路の右側(南側)の工場跡地を中心に現在大きなショッピングモールが出来ています。
高台から下りきったところに、又小河川が流れています。「兵庫川」です。川に沿った低湿地に何時頃か住宅団地が造成され、現在は住宅地に変わっています。
国土地理院2万5千分1地形図にはこの地点の標高表示が83mと記載されています。先ほどの新田小学校の校庭隅に設置された三角点の標高は87.9mと記されていますから、約5m程下がってきたことになります。
兵庫塚の台地を下ったところ、安塚街道の北側から、二筋の水路が道路の下を通過します。
西側の水路は名前が分かりませんが、街道に架かる橋の名前から推定して「中堀」と考えられます。
東側の水路が、「兵庫川」です。一方こちらの橋の名前は分かりません。


(写真左が「中堀」、右側が「兵庫川」)
兵庫川は街道を潜り抜けた後、道路の南側沿いを西に流れ(暗渠なので見えません)、街道の直ぐ南側で中堀と合流します。そこから住宅街を南に流れていきますが、兵庫川となっています。


(安塚街道の南側歩道部分が、鋼板が引き詰められています。おそらく下を兵庫川が流れている。右側の写真は街道南側の兵庫川、下流側から北方向を撮影。中央に写る橋は「中堀橋」、兵庫川は橋の手前で右側から中堀に合流してくる。そして合流後は兵庫川となる。)


(中堀橋の脇に建てられた「兵庫川」の表示板と「さつき一丁目交差点角に建てられた、通りの表示板)
兵庫川を渡った先に有る「さつき一丁目交差点」ですが、何故か道路が直交せず、北に伸びる「みどり野通り」と南に伸びる「さつき通り」がずれて、クランク状に成っています。なぜか新しく住宅地開発した時そうしなかったのか。もしかしたら兵庫川の河道の影響が有ったのか。私の想像だけです。

交差点を過ぎると、道は又上り坂に成ります。

交差点から少し歩いたところで、先ほどの「さつき一丁目交差点」を振り返ると、交差点辺りが一番低くなっている地形が、見て取れます。
しばらく歩いて行くと、又下り坂になってきました。

下がった所に又小河川が流れています。「新川」です。
新川に架かる「東田橋」は、拡幅工事が行われていました。


新川は、元々は農業用水として田川から取水し、開削された徳次郎用水、宝木用水を源流とした人口河川です。下流のさつき三丁目の南端部で、右岸に「兵庫川」が合わさります。更に南流して下野市に入り、上古山にて又右岸に「西川田川」が合流してきます。さらに南流した新川は、下野市下古山で姿川の左岸に流れ込んでいきます。こうして安塚街道で渡った四つの小河川は、姿川にまとまり小山市黒本にて思川左岸に流れ込んでいきます。
新川を渡ると、又道は上り坂へと変わります。安塚街道の終点、国道四号の「安塚街道入口交差点」まで、あと一息に成りました。

以前安塚街道入口部分は、道路が狭くて良く渋滞をしていましたが、現在はここも仝ルの拡幅が行われた。右折車線も有って、広々とした交差点に様変わりしていました。


あちらこちらと寄り道をしましたが、何とか安塚街道の終点までたどり着きました。ここから少し国道四号を北上して、JR宇都宮線の雀宮駅に向かいます。


途中、国道四号線沿いに建つ、「雀宮本陣跡」の石柱と、雀宮駅入口角に残る、「仮本陣芦谷家」の建物などを見て、雀宮駅に到着。1時間程度の行程でしたが、3時間も歩き回っていました。19,106歩でした。結構疲れました。

(ゴールのJR雀宮駅舎)
今回の参考資料:
・国土地理院発行2万5千分1「壬生」令和3年2月1日発行
・栃木県ホームページ「農業農村整備・幕田堰」
・栃木県神社誌(平成18年版)栃木県神社庁発行
・ウィキペディア「新川(栃木県)」
・ゼンリン住宅地図「宇都宮市1」
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