太平山の山内に建てられた歌碑・句碑を巡る。
新しい年を迎えた、2025年1月1日、太平山神社には大勢の初詣客が訪れている事でしょう。
栃木市の市街地の西に聳える、標高341mの太平山の山内には、多くの石碑が建てられています。
明治から大正・昭和と、地域の発展に貢献をした人物を顕彰する石碑や、太平山神社への参拝記念碑、そして神社への献納や寄附の記念碑などなど、おそらく50基を超えると思われます。他に神社の燈籠や狛犬・鳥居等の石造物を含めると、その数は180基を越えそうです。
今回はその中から、句碑と歌碑とに限定して、巡りたいと思います。
私がこれまで写真に収めた句・歌碑の数は、8基有りました。
まず、太平山神社の表参道の登り口、六角堂の境内に向かいます。
六角堂の右側に回り込んだ山際に建つのが、片山一樹の句碑です。

「夢も見ず よく寝た朝や 杜若」
一樹の本名は、片山久平。上町(現在の万町)で米・麻を商っていた、この地方きっての豪商でした。
建碑は、明治38年(1905)頃か、六角堂の完成を記念して建てられたものか、碑陰が見られないので、確認出来ませんでした。
そして、もう一基は、片山一樹句碑の左上方、崖の上に櫻井源四郎の歌碑が建てられています。

「太平の 嶺の神垣清ければ 末も濁らぬ 宝生の滝」
建碑は、明治35年(1902)。碑陰に「爲明治三十五年本堂再建紀念」と刻されていました。
「目で見る栃木市史」に、桜井源四郎の歌碑の記事が見えます。そこには<櫻井源四郎は、明治34年(1901)3月から44年(1911)3月まで、栃木町長をつとめた人物であり、六角堂建設も櫻井源四郎や片山久平らが中心となって行った事業であった。>と記されています。
そのような関係で上記二人の碑が六角堂の直ぐ脇に建てられたことが、理解できます。
次の碑は、六角堂脇からアジサイ坂を上り、太平山神社への参道石段を登って行き、太平山神社の社殿前、「古札社」と「神馬社」の間に建つ、對馬完治の歌碑です。

「草原に ねころぶ我の腰にのれ 背中にのれといはす低山」
碑陰に刻まれた碑文によると、<對馬完治先生は窪田空穂門下の髙足にして盛名夙に謳はる大正九年地上社を創立歌誌「地上」を刊行し・・・(後略)>と紹介されています。
建碑は、昭和41年(1966)頃、「地上」が50年を迎えるにあたり記念として建てられました。
次に、社殿前から東方向の見晴台方向に進んで行くと、途中右側に細長い 島田雅山の句碑が建っています。

「一葉して まのあたりなる 虚空かな」
「目で見る栃木市史」には、<雅山はながい間、県立栃木中学校(現栃木高校)の国漢の教師を務めた。渋柿派の中心的人物>と記されています。国府村に生まれました。大正12年に渋柿に入門。本名は島田真右衛門。
建碑は、昭和31年(1956)7月、衆議院議員山口好一が建立しています。
次に紹介する碑は、社殿前から西方向へ、眉間坂を降りて謙信平に向かいます。謙信平の中ほどに建つのが、松根東洋城の句碑に成ります。

「白栄や 雲と見をれば 赤麻沼」
「目で見る栃木市史」によれば、<東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。>と記されています。
明治11年(1878)2月、東京築地生まれ。本名は豊次郎。裁判官の父「権六」は宇和島藩城代家老松根図書の長男。大正4年「渋柿」主宰創刊。東洋城年譜によると、大正12年関東大震災の年の10月号から、渋柿は栃木において刊行されています。
建碑は、昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会により建立されました。
謙信平から東、元の栃木県立少年自然の家方向に降りていきます。現在解体工事が行われている少年自然の家の入口の先、駐車場の入口辺りに建っているのが、新村青幹の句碑に成ります。

「かなかなの しずかにをれば ふたつかな」
建碑は、昭和50年(1975)11月23日除幕、新村青幹句碑建立委員会樹石と碑陰に刻されています。
そこからさらに遊覧道路を下っていくと、ツツジ園が有ります。ツツジ園の広場の奥に、渡辺桑畝の句碑がひっそりと建っています。

「風の道 ありて山萩 ゆれやまず」
栃木渋柿会、吹上町の人
建碑は、昭和58年(1983)8月、碑陰に<登女建之>と刻されています。
そして、最後は句碑ですが、俳句ではなく川柳に成ります。建てられているのは、遊覧道路の大曲駐車場近くに建てられています。
前田雀郎の句碑です。

「太平の 曲がればここも 花吹雪」
建碑は、昭和29年(1954)、不二見川柳社建立
句碑の右後方に、不二見川柳社同人が昭和59年(1984)夏に建てた石碑によると、<本県が生んだ川柳の大家、前田雀郎は、若くして上京、川柳の探求と興隆に尽くした、その名を全国に馳せた。第二次大戦のとき宇都宮に帰郷。以来、県下川柳界の指導に励み、この功により、栃木県文化功労賞を受けた。・・・(後略)>と、刻しています。
これらの石碑の建つ場所を、国土地理院発行の地図に加筆して記しました。

昨年の暮れ、何度か太平山に登り、太平山内に建つ石碑の現状を見て歩きました。
平成27年9月に発生した「関東・東北豪雨」や、令和元年10月の「東日本台風」などの来襲に伴い、太平山内も各所で土砂崩れが発生しています。その為に多くの石造物が被害を受けていることが分かりました。
又、雑木や雑草が生い茂って、今回紹介した石碑も、何処に有ったか探すのに苦労したものも有りました。
まさに石碑にとっては、受難の時代に成った感が有ります。
山本有三文学碑もだいぶ雑木に覆われて来ています。地道な整備活動が必要に成っています。

今回参考にした資料:
・とちぎ俳句辞典、平成22年4月1日、栃木県俳句作家協会発行
・目で見る栃木市史、昭和53年3月31日、栃木市発行
・句集「団栗」(第三集)、昭和53年2月1日、栃木渋柿会発行
・栃木人・明治・大正・昭和に活躍した人びとたち、2017年4月1日、石崎常蔵発行
・太平山の石造物、平成28年3月31日、國學院大學栃木短期
栃木市の市街地の西に聳える、標高341mの太平山の山内には、多くの石碑が建てられています。
明治から大正・昭和と、地域の発展に貢献をした人物を顕彰する石碑や、太平山神社への参拝記念碑、そして神社への献納や寄附の記念碑などなど、おそらく50基を超えると思われます。他に神社の燈籠や狛犬・鳥居等の石造物を含めると、その数は180基を越えそうです。
今回はその中から、句碑と歌碑とに限定して、巡りたいと思います。
私がこれまで写真に収めた句・歌碑の数は、8基有りました。
まず、太平山神社の表参道の登り口、六角堂の境内に向かいます。
六角堂の右側に回り込んだ山際に建つのが、片山一樹の句碑です。

「夢も見ず よく寝た朝や 杜若」
一樹の本名は、片山久平。上町(現在の万町)で米・麻を商っていた、この地方きっての豪商でした。
建碑は、明治38年(1905)頃か、六角堂の完成を記念して建てられたものか、碑陰が見られないので、確認出来ませんでした。
そして、もう一基は、片山一樹句碑の左上方、崖の上に櫻井源四郎の歌碑が建てられています。

「太平の 嶺の神垣清ければ 末も濁らぬ 宝生の滝」
建碑は、明治35年(1902)。碑陰に「爲明治三十五年本堂再建紀念」と刻されていました。
「目で見る栃木市史」に、桜井源四郎の歌碑の記事が見えます。そこには<櫻井源四郎は、明治34年(1901)3月から44年(1911)3月まで、栃木町長をつとめた人物であり、六角堂建設も櫻井源四郎や片山久平らが中心となって行った事業であった。>と記されています。
そのような関係で上記二人の碑が六角堂の直ぐ脇に建てられたことが、理解できます。
次の碑は、六角堂脇からアジサイ坂を上り、太平山神社への参道石段を登って行き、太平山神社の社殿前、「古札社」と「神馬社」の間に建つ、對馬完治の歌碑です。

「草原に ねころぶ我の腰にのれ 背中にのれといはす低山」
碑陰に刻まれた碑文によると、<對馬完治先生は窪田空穂門下の髙足にして盛名夙に謳はる大正九年地上社を創立歌誌「地上」を刊行し・・・(後略)>と紹介されています。
建碑は、昭和41年(1966)頃、「地上」が50年を迎えるにあたり記念として建てられました。
次に、社殿前から東方向の見晴台方向に進んで行くと、途中右側に細長い 島田雅山の句碑が建っています。

「一葉して まのあたりなる 虚空かな」
「目で見る栃木市史」には、<雅山はながい間、県立栃木中学校(現栃木高校)の国漢の教師を務めた。渋柿派の中心的人物>と記されています。国府村に生まれました。大正12年に渋柿に入門。本名は島田真右衛門。
建碑は、昭和31年(1956)7月、衆議院議員山口好一が建立しています。
次に紹介する碑は、社殿前から西方向へ、眉間坂を降りて謙信平に向かいます。謙信平の中ほどに建つのが、松根東洋城の句碑に成ります。

「白栄や 雲と見をれば 赤麻沼」
「目で見る栃木市史」によれば、<東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。>と記されています。
明治11年(1878)2月、東京築地生まれ。本名は豊次郎。裁判官の父「権六」は宇和島藩城代家老松根図書の長男。大正4年「渋柿」主宰創刊。東洋城年譜によると、大正12年関東大震災の年の10月号から、渋柿は栃木において刊行されています。
建碑は、昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会により建立されました。
謙信平から東、元の栃木県立少年自然の家方向に降りていきます。現在解体工事が行われている少年自然の家の入口の先、駐車場の入口辺りに建っているのが、新村青幹の句碑に成ります。

「かなかなの しずかにをれば ふたつかな」
建碑は、昭和50年(1975)11月23日除幕、新村青幹句碑建立委員会樹石と碑陰に刻されています。
そこからさらに遊覧道路を下っていくと、ツツジ園が有ります。ツツジ園の広場の奥に、渡辺桑畝の句碑がひっそりと建っています。

「風の道 ありて山萩 ゆれやまず」
栃木渋柿会、吹上町の人
建碑は、昭和58年(1983)8月、碑陰に<登女建之>と刻されています。
そして、最後は句碑ですが、俳句ではなく川柳に成ります。建てられているのは、遊覧道路の大曲駐車場近くに建てられています。
前田雀郎の句碑です。

「太平の 曲がればここも 花吹雪」
建碑は、昭和29年(1954)、不二見川柳社建立
句碑の右後方に、不二見川柳社同人が昭和59年(1984)夏に建てた石碑によると、<本県が生んだ川柳の大家、前田雀郎は、若くして上京、川柳の探求と興隆に尽くした、その名を全国に馳せた。第二次大戦のとき宇都宮に帰郷。以来、県下川柳界の指導に励み、この功により、栃木県文化功労賞を受けた。・・・(後略)>と、刻しています。
これらの石碑の建つ場所を、国土地理院発行の地図に加筆して記しました。

昨年の暮れ、何度か太平山に登り、太平山内に建つ石碑の現状を見て歩きました。
平成27年9月に発生した「関東・東北豪雨」や、令和元年10月の「東日本台風」などの来襲に伴い、太平山内も各所で土砂崩れが発生しています。その為に多くの石造物が被害を受けていることが分かりました。
又、雑木や雑草が生い茂って、今回紹介した石碑も、何処に有ったか探すのに苦労したものも有りました。
まさに石碑にとっては、受難の時代に成った感が有ります。
山本有三文学碑もだいぶ雑木に覆われて来ています。地道な整備活動が必要に成っています。

今回参考にした資料:
・とちぎ俳句辞典、平成22年4月1日、栃木県俳句作家協会発行
・目で見る栃木市史、昭和53年3月31日、栃木市発行
・句集「団栗」(第三集)、昭和53年2月1日、栃木渋柿会発行
・栃木人・明治・大正・昭和に活躍した人びとたち、2017年4月1日、石崎常蔵発行
・太平山の石造物、平成28年3月31日、國學院大學栃木短期
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