百人一首ゆかりの地宇都宮市を巡る
宇都宮市と言えば、栃木県の県庁所在地であり、広く餃子の街として知られていますが、最近ではLRTの走る街でも、話題を呼んでいます。
それだけでなく、宇都宮は「ジャズの街」や、「カクテルの街」としても知られています。
古くは鎌倉時代、宇都宮は城主のもとに優れた歌人が大勢集い、京都や鎌倉と並んで、日本三歌壇の一つに挙げられていました。
ではなぜ宇都宮は「百人一首」のゆかりの地と言われるのでしょうか。
昨年12月の「広報うつのみや」に、それを紹介する記事を見つけましたので、抜粋して掲載させて頂きます。
<百人一首の誕生には、鎌倉時代に宇都宮市で活躍した宇都宮城5代城主宇都宮頼綱の存在が欠かせません。頼綱は、鎌倉幕府から謀反の疑いを掛けられてしまい、宇都宮城と民を守るため、やむを得ず出家し、京都に移り住むこととなりました。そして、名前を「蓮生」と改名しました。蓮生は京都で和歌の名手「藤原定家」と親しくなります。やがて、蓮生の娘と定家の息子(藤原為家)が結婚し、蓮生と定家は親戚関係になり、和歌を愛した蓮生は、定家に頼んで別荘の襖に飾る和歌を選んでもらいました。それが百人一首のもとになったと言われています。>
宇都宮市では百人一首ゆかりの地として、「うつのみや百人一首市民大会」を毎年開催していて、今年度の大会が第30回を迎えた記念として市内の三ヵ所に「百人一首デザインマンホール」を設置したと、同広報紙に有りました。
そこで今回、そのデザインマンホールを、歩いて巡ることとしました。
最初の設置場所は、宇都宮城址公園です。宇都宮城は、平安時代後期に築かれたと言われ、鎌倉時代以後は、宇都宮氏の居城。宇都宮氏はこの城を根拠地にして、二荒山神社の祭祀を行い、周辺を支配していました。しかし、戊辰戦争にて建物の大半が焼失し、堀も次第に埋められて、現在では昔を偲ぶものは殆ど無く成っています。
この宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいて本丸の一部復元したもので、中心市街地の活性化の拠点づくりや防災の拠点などに成っているそうです。
公園北側入口近くに、目的のマンホール蓋が設置されていました。

マンホール蓋に描かれている絵柄は、持統天皇の歌「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」です。
次の設置場所は、下野國の一之宮「宇都宮二荒山神社」。ここから真っ直ぐ北に600m程歩いて行けば、突き当りに成ります。

大通りに面した大鳥居の直ぐ前の歩道部分に、百人一首デザインマンホール蓋が有りました。
その図柄は、小野小町の歌「花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふる ながめせしまに」です。
ここで二荒山神社に参拝して、境内を散策しました。
境内には多くの石碑が建てられています。記念碑だけでなく、歌碑や句碑も多く見られます。
神楽殿の右脇に有るのが、手塚七木の句碑「うぶすなの 大杉ゆする どんどかな」や、神楽殿左側の、前田雀郎の川柳句「夢の中 古里人は 老いもせず」の碑が建っています。

他に「渋谷行雄歌碑」や「戸田忠至歌碑」、「文可句碑」、そして「宰鳥(蕪村)句碑」なども建てられていました。
3ヵ所目の設置場所は、少し離れたJR宇都宮駅の東側、LRTの停留所「駅東公園前」の近くなので、ここも頑張って歩いて向かいました。
大通りを東に進み、JR宇都宮駅の自由通路を通って駅東へ。そこからLRTの走る通りに沿って東へ。距離として2.3kmほど、目的の設置場所に。

マンホール蓋の図柄は、在原業平朝臣の歌「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」です。
さすがに疲れたので、帰りはLRTにのって宇都宮駅まで、更に路線バスで帰ってきました。
今後も新たな図柄の「百人一首デザインマンホール蓋」が設置されることを、願って今回のウォーキング完歩です。
少しズルしましたが。
今回の参考資料:
・「広報うつのみや 令和6年12月号」 宇都宮市総合政策部広報広聴課編集発行
それだけでなく、宇都宮は「ジャズの街」や、「カクテルの街」としても知られています。
古くは鎌倉時代、宇都宮は城主のもとに優れた歌人が大勢集い、京都や鎌倉と並んで、日本三歌壇の一つに挙げられていました。
ではなぜ宇都宮は「百人一首」のゆかりの地と言われるのでしょうか。
昨年12月の「広報うつのみや」に、それを紹介する記事を見つけましたので、抜粋して掲載させて頂きます。
<百人一首の誕生には、鎌倉時代に宇都宮市で活躍した宇都宮城5代城主宇都宮頼綱の存在が欠かせません。頼綱は、鎌倉幕府から謀反の疑いを掛けられてしまい、宇都宮城と民を守るため、やむを得ず出家し、京都に移り住むこととなりました。そして、名前を「蓮生」と改名しました。蓮生は京都で和歌の名手「藤原定家」と親しくなります。やがて、蓮生の娘と定家の息子(藤原為家)が結婚し、蓮生と定家は親戚関係になり、和歌を愛した蓮生は、定家に頼んで別荘の襖に飾る和歌を選んでもらいました。それが百人一首のもとになったと言われています。>
宇都宮市では百人一首ゆかりの地として、「うつのみや百人一首市民大会」を毎年開催していて、今年度の大会が第30回を迎えた記念として市内の三ヵ所に「百人一首デザインマンホール」を設置したと、同広報紙に有りました。
そこで今回、そのデザインマンホールを、歩いて巡ることとしました。
最初の設置場所は、宇都宮城址公園です。宇都宮城は、平安時代後期に築かれたと言われ、鎌倉時代以後は、宇都宮氏の居城。宇都宮氏はこの城を根拠地にして、二荒山神社の祭祀を行い、周辺を支配していました。しかし、戊辰戦争にて建物の大半が焼失し、堀も次第に埋められて、現在では昔を偲ぶものは殆ど無く成っています。
この宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいて本丸の一部復元したもので、中心市街地の活性化の拠点づくりや防災の拠点などに成っているそうです。
公園北側入口近くに、目的のマンホール蓋が設置されていました。


マンホール蓋に描かれている絵柄は、持統天皇の歌「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」です。
次の設置場所は、下野國の一之宮「宇都宮二荒山神社」。ここから真っ直ぐ北に600m程歩いて行けば、突き当りに成ります。


大通りに面した大鳥居の直ぐ前の歩道部分に、百人一首デザインマンホール蓋が有りました。
その図柄は、小野小町の歌「花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふる ながめせしまに」です。
ここで二荒山神社に参拝して、境内を散策しました。
境内には多くの石碑が建てられています。記念碑だけでなく、歌碑や句碑も多く見られます。
神楽殿の右脇に有るのが、手塚七木の句碑「うぶすなの 大杉ゆする どんどかな」や、神楽殿左側の、前田雀郎の川柳句「夢の中 古里人は 老いもせず」の碑が建っています。


他に「渋谷行雄歌碑」や「戸田忠至歌碑」、「文可句碑」、そして「宰鳥(蕪村)句碑」なども建てられていました。
3ヵ所目の設置場所は、少し離れたJR宇都宮駅の東側、LRTの停留所「駅東公園前」の近くなので、ここも頑張って歩いて向かいました。
大通りを東に進み、JR宇都宮駅の自由通路を通って駅東へ。そこからLRTの走る通りに沿って東へ。距離として2.3kmほど、目的の設置場所に。


マンホール蓋の図柄は、在原業平朝臣の歌「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」です。
さすがに疲れたので、帰りはLRTにのって宇都宮駅まで、更に路線バスで帰ってきました。
今後も新たな図柄の「百人一首デザインマンホール蓋」が設置されることを、願って今回のウォーキング完歩です。
少しズルしましたが。
今回の参考資料:
・「広報うつのみや 令和6年12月号」 宇都宮市総合政策部広報広聴課編集発行
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