台東区千束、新吉原遊郭跡周辺を歩く。

先日、今年のNHK大河ドラマ「べらぼう 蔦重栄華乃夢噺」で、主人公蔦屋重三郎の出生地であり、活躍の場となった台東区千束四丁目の新吉原遊郭跡やその周辺を歩いて巡って来ました。
東武浅草駅に久しぶりに、降り立ちました。せっかくの浅草、雷門から浅草寺を見て行こうと、観光客の人波に流されるように、雷門の前に来て、溢れる観光客の多いのに、チョッとうんざり気味に。
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(浅草雷門前は大勢の観光客で溢れています)
この人混みの中、とても仲見世通りに、足を踏み込む勇気も無くなり、浅草駅前まで戻ってしまう。
浅草寺への参拝はあきらめて、目的地の新吉原遊郭跡の方向に向かうことに。浅草駅の西側を北上する、「馬道通り」の歩道を進むことに。
少し歩くと、右手に台東区がオープンした「大河ドラマ館」のある、台東区民会館。
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(左手のビルが「台東区民会館」右奥に東京スカイツリーが聳えています)
せっかくなのでチョッと覗いてみる。
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(会館入口ドアに施された新吉原仲之町の浮世絵とエレベータドアの装飾)
ここでも見学者の流れに身を任せて、展示物を鑑賞。蔦屋重三郎に関した説明文に、これまでドラマの中で描かれている内容に、改めて納得させられました。そして、これからのドラマの展開がますます興味が湧いてきました。
一通り見学して会場を後に、又「馬道通り」を北に向かって歩きます。しばらく進むと道路は大きなY字路に。左方向が広い通り「土手通り」となります。かつての日本堤の跡で、江戸の昔もこの土手を新吉原へ向かう人達で賑わった通りです。今はただ車が行き来する通りで、味も素っ気も有りません。そちらを歩いて行ってもつまらないので、ここは左に曲がらずに、右の通りに入る。
少し行くとかつての「山谷堀」の跡が現れます。江戸時代には新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで、この山谷堀を船で行き来するのが優雅で粋とされていたようです。

現在は経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、昭和51年(1976)頃から暗渠化され、「山谷堀公園」と成っています。
ここで少し下流側へ歩くと、「正法寺橋」の橋名を付けた親柱が現れます。
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(暗渠化された山谷堀、上は公園に成っています)
この橋名に有る「正法寺」という寺院が橋の直ぐ近く有ります。「東浅草 誠向山 正法寺」という日蓮宗の寺院で、こちらに蔦屋重三郎が葬られているそうで、寺院内の墓地に、復刻した墓碑と顕彰供養碑を見学させて頂きました。
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(正法寺墓地に建つ、蔦屋墓碑と萬霊塔)
蔦屋重三郎は寛政9年(1797)5月6日に亡くなり、その翌日5月7日に正法寺にて葬儀が行われ大田南畝が参列をしたそうです。
山谷堀跡の公園内の道を戻り、山谷堀を上流側に向かって行きます。途中「山谷堀橋」・「紙洗橋」・「地方新橋」を抜け350m程歩くと山谷堀公園の北端の「地方橋」。
山谷堀橋.jpg 地方新橋.jpg
(山谷堀公園に残るかつての橋の跡)
ここから左側を並走していた「土手通り」に戻ります。
「土手通り」の「地方橋交差点」から230m程北ににある「吉原大門交差点」まで歩くと、「吉原大門交差点」の南西側角に1本の柳の木が見えてきます。旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したと言われます。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったと言う事から、「見返り柳」と呼ばれました。
見返り柳.jpg 見返り柳の碑.jpg
(土手通りと五十間道との角、大門入口のシンボル、見返り柳)
ここで、土手通りから左に折れて、吉原大門の方向に向かいます。通りは大きく右にカーブしてその先を見通せません。さらにその先で今度は左にカーブをしています。この逆S字に曲がった通りは、かつて「五十間道」と呼ばれていました。五十間の長さはメートルに換算すると約90mとなります。おおよそ現在の距離に似通っています。
五十間道路.jpg よし原大門跡.jpg
(五十間道はカーブしていて先が見えません。「よし原大門」と表示された街灯)
この地に遊郭が出来たのは、明暦三年(1657)の大火の後で、その年の八月、日本橋にあった元吉原から移転されました。最盛期には三千人もの遊女が在籍したと言われています。
そのの新吉原遊郭の跡地に着きましたが、現地にはその名残は、全くと言って残っていません。かつて遊郭への入口に建っていた大門も、今は通りの両脇街灯の柱に「よし原大門」の表示板がその場所を表示しているだけです。それでも遊郭が有った区域内を直交する通りの名前「江戸町通り」・「京町通り」・「角町通り」・「揚屋通り」・「仲之町通り」だけが、昔を物語っていました。
こうした遊郭内の通りも今は、外部と自由に交通が可能に成っていますが、かつては遊郭の周囲を通称「おはぐろドブ」と呼ばれた堀で囲われ、外界とは遮断され、唯一大門からの出入りだけの世界でした。今は其堀の跡も有りません、ただ一か所堀の一部と言われる、大谷石を積んだ護岸跡を残すだけです。
おはぐろドブの名残.jpg お茶屋の名残の家屋.jpg
(おはぐろドブの名残大谷石製の護岸、今唯一残るお茶屋さんの建屋)
遊郭跡を後にして、吉原神社に向かいます。大門からまっすぐ伸びる「仲之町通り」を裏口から抜けると直ぐ右手に「吉原神社」が見えます。
吉原神社前.jpg吉原神社社殿.jpg
(吉原神社入口と社殿)
吉原神社の由緒によると、<新吉原遊郭にはその守護神として五つの稲荷神社が存在してました。大門手前に「吉徳稲荷社」そして郭内の四隅に「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」そして、大河ドラマではナレーション担当の綾瀬さん扮する、「九郎助稲荷社」です。
その後明治14年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられた。>と記されています。昭和9年に現在地に新社屋を造営、そのさい新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しています。
その新吉原花園池(弁天池)跡に寄っていきます。

案内板が建てられています。<江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋め立て、日本橋の吉原郭が移された。以来昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。・・・(中略)・・・池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。・・・(後略)>と記されています。
大震火災殃死者追悼記念碑.jpg 花吉原名残碑.jpg
(観音像が建つ大震火災殃死者追悼記念碑と、境内に建つ「花吉原名残碑」)
次に「酉の市」で鷲神社に参拝しました。
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(鷲神社表参道と拝殿正面賽銭箱の上にお披露目された「なでおかめ」)
境内の一角に四基の石碑が並べて建てられています。樋口一葉文学碑に、穂口一葉玉梓乃碑、他に正岡子規の句碑「雑閙や熊手押あふ酉の市」など。
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(正岡子規の句碑と樋口一葉玉梓乃碑)
樋口一葉は、明治26年(1893)7月より明治27年4月までの十か月の間、新吉原遊郭に隣接した竜泉寺町に、住んでいます。そしてその間に見聞きした事を題材に代表作の「たけくらべ」を、明治28年(1895)1月から翌年1月まで「文学界」に断続的に連載しています。
「たけくらべ」は、新吉原遊郭のうれっこ遊女を姉に持つ14歳の少女「美登利(みどり)」と僧侶の息子「信如(のぶゆき)」との淡い思いのすれ違いを、今回改めて読みかえしていくと、<回ってみれば大門の見返り柳までの道程はとても長いけれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火のうつる郭三階の騒ぎも手に取るように聞こえ、明け暮れなしの人力車の往来ははかり知れない繁盛を思わせて、・・・>と、始まり、なんとなくリズミカルな歌曲的と思われる文体で、描かれているように感じました。
樋口一葉の住居跡近くには現在台東区立一葉記念館が建てられています。そちらも回ってみたいと思います。
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(台東区立一葉記念館入口)
記念館前の公園内に「一葉女史たけくらべ記念碑」と刻した石碑が建てられている。碑文には一葉の旧友歌人「佐佐木信綱」による歌二首が刻まれています。
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(記念館前公園の隅に建つ「一葉女史たけくらべ記念碑」)
ここまで歩いてくると地下鉄日比谷線の「三ノ輪駅」も、もう直ぐです。
最後に駅の近くにある「浄閑寺」に行きます。このお寺は「投げ込み寺」とも呼ばれ、亡くなった新吉原遊郭の遊女の亡骸が、投げ込み同然に葬られたことから、そう呼ばれるようになりました。
花又花酔の詠んだ川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の句が、墓地に有る新吉原総霊塔の壁面に刻まれています。
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(浄閑寺墓地に建つ「新吉原総霊塔」と花又花酔の川柳)
わが町栃木市で少女時代を過ごした女流作家の「吉屋信子」もその作品「ときの声」の取材で当地を訪れています。
この新吉原総霊塔の下には無縁仏の娼妓の遺骨が、約二万五千人葬られていると言われます。そんな墓地の一角に「若紫之墓」と刻されたぼせきふぁ一基建っています。
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(ポツンと建てられた花紫之墓)
この娼妓には珍しい墓の由来とは、<若紫は新吉原角海老楼に身売りされてから精勤の甲斐あって数年の年季間にみごとに身代金返済成ってようやく自由の身となって相愛の客と結婚直前、彼女に振られた客の凶刃に倒れたのを、楼主が憐れんで墓を建てたものと言う。どうにもこうにもハッピーエンドな話が聞けない。
今回のウォーキング、人間のさまざまな欲や、チョッとはかない思い、色々な感情が重なってくる。少し足取りも重くなるようです。
三ノ輪駅はすぐ近くです。

今回の参考資料:
・樋口一葉著「たけくらべ」河出書房新社 2004年12月30日発行
・吉屋信子全集12より「ときの声」 朝日新聞社 昭和51年1月15日発行
・吉原神社ホームページ
・浅草 鷲神社ホームページ
・誠向山 正法寺ホームページ



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