安積疏水の関連石碑を巡る
今年、琵琶湖疏水関連施設が、国宝及び重要文化財に指定されました。国宝に指定されたのは「南禅寺水路閣」「インクライン」「第一隧道」など5か所。

(上掲写真は、南禅寺水路閣と第一隧道東口)
重要文化財は、「大津閘門及び堰門」「大津運河」「蹴上発電所旧本館」など24か所です。
(上掲写真は、大津閘門と旧御所水道ポンプ室)
「疏水」の意味は、広辞苑によると<①水を流すこと。②灌漑・給水・舟運または発電のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること。また、そのもの。多くは湖沼・河川から開溝して水を引き、地形によってはトンネルを設けることもある。琵琶湖疏水が有名。>と、記されています。
ちなみに「日本三大疏水」と言われるのは、①安積疏水(福島県)②那須疏水(栃木県)③琵琶湖疏水(滋賀県・京都府)に成ります。
今回は、福島県の「安積疏水(あさかそすい)」の関連施設を巡り、そこに建てられた石碑などから、明治維新後に、日本で最初の国家プロジェクトとなった、「安積疏水」について、見ていきたいと思います。
再度「広辞苑」にて、安積疏水を検索してみると、<福島県中部の猪苗代湖から取水し、郡山盆地を灌漑する用水路。新旧2本あり、1882年(明治15年)、1951年(昭和24年)それぞれ完成。>と説明されています。
このように其の水源は、猪苗代湖に成ります。したがって、当初は「猪苗代湖疏水」と呼ばれていました。
郡山市街地に鎮座する「開成山大神宮」の境内には、この安積疏水に関連した記念碑が建てられていますが、その一つに「安積野開拓顕彰碑」が有ります。

(開成山大神宮境内に建つ「安積野開拓顕彰碑」と碑陰の碑文を一部抜粋し書き写した。)
碑文には安積野開拓の目的のひとつ「明治維新により、その地位を失った士族に対する授産事業」の通り、二本松藩を始め、久留米藩、松山藩、土佐藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩、会津藩、棚倉藩の九藩が入植し、刀を鍬に持ち替え、想像を絶する困難と極度の窮乏に耐え、不撓不屈の開拓精神の基、初期の目的を達成したと、記されています。
石碑の立つ基礎部分には、入植した各藩の地元から運んだ玉石にそれぞれの藩名が刻まれています。

(安積野開拓顕彰碑台座の玉石には、入植した各藩の名前が刻まれています。)
尚、この「安積野開拓顕彰碑」と横並びに、「安積開拓の父」と言われる、「中條政恒翁頌徳碑」と戊辰戦争の戦火で焼失した町の復興を願う商人の中心となり「開成社」を設立、初代社長として開拓事業に尽力した「贈従五位阿部茂兵衛貞行翁之像」が、建てられています。

これらの記念碑が建つ、ここ「開成山大神宮」も、明治6年(1873)、大槻原(郡山市開成地区)開墾が始まった際、習俗の異なった人々の融和や慰安の場所として遥拝所が設けられました。明治9年(1876)には伊勢神宮の御分霊が奉遷され、「開成山大神宮」となりました。現在は「みちのくのお伊勢さま」と称されています。明治12年(1879)に安積疏水事業の起業式が行われ、内務卿伊藤博文らが臨席しました。3年後の明治15年(1882)「に安積疏水は完成し、通水式には、右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義、農商務卿西郷従道など政府高官が臨席して通水を祝いました。(開成山大神宮正面入口鳥居脇に建つ案内板より抜粋)

(開成山大神宮 東側鳥居ごしに社殿を望みます)
この開成山大神宮の東側には、開成山公園が広がていますが、その公園内に「開拓者の群像」と称する大きなモニュメントが建てられています。

(安積開拓の偉業をたたえる、日本芸術院会員三坂耿一郎氏作のモニュメント。平成4年10月に建立、塔の高さは17.6m。塔頂の鳥は、郡山市鳥のカッコウ)

(塔の右下には、中條政恒、大久保利通、ファン・ドールンらの像が並ぶ。)
そして、このモニュメントの前方石碑には、「安積野の開拓はこの地より創(はじ)まる」と題し、<かつて奥州路の小宿駅に過ぎなかった郡山は、明治の初期、この地の富商らが結成した開成社と、士族授産を目的とした明治政府直轄の大規模開拓により、太古以来の安積原野がことごとく開拓された。さらに明治十五年、有史以来はじめて猪苗代湖水をこの原野に東注した安積疏水の完成は、今日の郡山市発展の原動力となった。われわれは、この地に開拓精神発揚のシンボルとして「開拓者の群像」を設置し、先人に感謝しその偉業をたたえ、これを後世に伝えるものである。1992年10月 郡山市>と、刻んでいます。
さらに、この開成山公園の南西角、国道49号に面して1基の石碑が建てられています。

石碑上部篆額には、「開墾率先碑」と篆書体文字で揮毫されています。揮毫した人物は「内大臣正二位大勲位侯爵松方正義です。
この石碑は、旧久留米藩士で、安積郡に移住してきて、率先して開墾に一生を尽くした、「従五位勲四等森尾茂助」「正八位太田茂」の兩氏の、功績を称えるもので、碑文には開拓の推移が詳細に記されています。
開成山公園南側を東西に横断する県道6号を、西進すると道路は突き当りとなる。この突き当りの位置に建つのが、明治7年(1874)に建てられた擬洋風建築の「開成館」。最初は区会所や安積開拓の事務所として使われた建物ですが、現在は令和3年2月13日に発生した福島県沖地震による甚大なる被害により、公開が停止されていて、見学することが出来ませんが、敷地内に建つ「安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)」や「安積開拓入植者住宅」等は見ることが出来ました。

次に、開成山公園から南の方角約6kmの所、安積町牛庭に鎮座する「大久保神社」に向かいます。
郡山市の市街地から抜けた周辺にはまだ多くの田畑が残る地に、目的の「大久保神社」が建っていました。その名前の通り、明治維新の偉人「大久保利通」を祀った神社に成ります。大久保利道は、安積疏水事業を士族授産と結び付けて、国営農業水利事業を、日本最初の国家プロジェクトとして実現することに尽力しました。その遺徳を後世に伝えるため、愛媛開拓者や牛庭原地域の人々によって明治22年(1889)に創建された神社です。しかしその後、社屋の痛みが激しくなった為廃社とし、代わりに石碑の建立となりました。

(大久保神社、「故内務卿大久保公追遠碑」及び碑文を書き写した内容)
石碑上部篆額の「崇恵廣業」の文字は、実際は篆書体で書かれています。揮毫者は「正二位大勲位侯爵松方正義」です。撰文ならびに書は、鷹洲織田完之です。
猪苗代湖の水は、安積疏水が造られる以前は、全て会津地方に流れ、日本海へ注いでいました。猪苗代湖の東側には標高1,000m程度の山々が南北に連なり、壁となっていた為です。郡山は阿武隈川に向かって傾斜して水利の悪い丘陵地帯の為、荒涼とした安積原野が広がった土地でした。
安積疏水工事の取っ掛かりは、猪苗代湖の唯一の島「翁島」の西側にある入江の様な「銚子の口」から流れだす「日橋川」の水量を、「戸の口」にて十六橋に水門を建設して、会津盆地に流出する水量を調節出来るようにしました。

(上掲の写真は現在の「安積疏水十六橋水門」です。現在は猪苗代湖の洪水を防止する大事な施設として利用されています。)
十六橋の西側橋詰の広場に、数基の石碑と共に建つ1体の銅像が有ります。

(長工師ファンドールン像と碑誌碑文)
オランダ人長工師コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン先生は、明治5年(1872)35歳の時、明治政府の招きで来日、土木局長工師としてそれまで幾つか出ていた疏水開鑿ルートを、明治11年11月の実地巡検と、西欧の技術的計算の下、立証をしました。銅像の脇に昭和54年10月に建てられた碑誌では、「安積疏水の生みの親」と称しています。
この銅像には、ひとつのエピソードが有ります。<第二次世界大戦の敗戦が色濃くなった昭和19年、軍部は軍需用資源として金属の強制供出を発令し、一般家庭社寺仏閣などから徹底して金属が回収されて行きましたが、疏水常設委員の渡辺信任は、付近の農家から人々を集め、この銅像を秘密のうちに付近の山に埋めて隠し通し、終戦後の昭和21年9月末に、山中から掘り起こして再建したものです。>
次に、安積疏水事業の目的のひとつ、水力発電開発について見ると、最初に猪苗代湖との落差を利用して出来たのは、沼上発電所に成ります。

「沼上発電所」は、郡山絹糸紡績株式会社により設置され、明治32年(1899)6月17日に運転を開始しています。日本で初めての高圧送電を利用し、郡山市内まで送電され製紙業や紡績繊維産業の発展に寄与しました。
写真左側に写る滝は、猪苗代湖より流れ落ちる安積疏水に成ります。
国土地理院地図にて、現在の安積疏水路の流路を見ていくと、猪苗代湖の東岸、上戸浜の北端近くに「安積疏水取水口」と記されています。ここに扇形に見えるのが「上戸頭首工」で昭和37年(1962)に完成しています。これは食料増産の時代を反映して、従来の疏水では賄いきれなかった区域に対する開田を行う為に、昭和18年「新安積開拓建設事業」によるもので、従来の取水口が有った山潟水門から移りました。
新たな水路は、地図上では破線で記されている通り、その殆どがトンネルに成っています。
「上戸頭首工」から取水された猪苗代湖の水は、小坂山の山中で東に1400m、その後東南東方向に4000m、鎌倉山の下を流れ、田子沼にて「新安積疏水」を分流しています。安積疏水本流はそこから更に東方に800m程流れ、中山峠の北側標高500m付近で、導水管を流れ落ち「沼上発電所」のタービンを回しています。
「田子沼分水工」は、地図上で破線で記されていると様に、地下施設に成っています。山間の雑木林に有る建物の入り口から入り、地下に向かう階段を下りていくと、コンクリートに囲まれた部屋の底に水がたまり、側面に水路の丸い口が開いているのが見えます。

(田子沼分水工の内部。地下の部屋に安積疏水の水を分岐する施設が有ります。)
一方、沼上発電所を出た水は、五百目川に注ぎますが、すぐまた取水され今度は東北東方向に1600m程トンネル内を流れた後、大正8年(1919)に運転開始した「竹ノ内発電所」のタービンを回し、その後直ぐ又取水されてトンネル内を東南東方向に4700m程流れ、熱海町熱海に大正10年(1921)10月運転開始した「丸守発電所」に至ります。

(丸守発電所は当時の郡山電気が建設した、安積疏水の最下流に位置する発電所)
丸守発電所から流れ出た水は、一度五百目川を流れますが、直ぐ又下流に設けられた「熱海頭首工」にて取水されます。この後安積疏水は山際を流れ、熱海町安子島で第一分水路と分岐、その後も山際を南流する安積疏水は、第二・第三・第四分水路等に分流しながら第七分水に至り、郡山市西部の水田を潤しています。

(安積疏水第一分水路)
また、田子沼分水工にて分岐された、新安積疏水は安積疏水の西側の山々をトンネルで貫き、郡山市の南隣、須賀川市の灌漑に供しています。
最後に、安積疏水の丸守発電所の下流、熱海頭首工の近く、五百目川の右岸に「安積疏水神社」が祀られています。

明治12年(1869)、安積疏水開鑿事業に先立ち、その無事完成を祈願して建てられた神社です。当時は石造りの祠でした。工事期間中における作業の安全や事業の早期完成を主に祈念し、工事に従事する作業員たちが、熱海を通って現地へ向かう際には、必ず立ち寄ったとされています。
昭和10年(1935)には、安積疏水事業に尽力された、大久保利通、松方正義、伊藤博文の御霊も合肥されました。
この「安積疏水神社」の境内にも何基かの石碑が建てられていました。そのうちの一基に「三社功績碑」と題額に有りましたので、碑文を書き写しました。

碑文の最後に、「昭和廿余年十月一日疏水記念日に」として、「安積疏水普通水利組合常設委員 渡邉信任謹記」と刻されています。
内容的には、新安積疏水工事に携わった、「鹿島建設」「間組」「鉄道工業」の三社の業績を、永遠に告げるため建碑されたものです。
こうして安積疏水事業の内容を、石碑に刻された内容等で読んでいくと、明治維新当時に進められた、安積原野開拓の難事業の様子が、感じ取れました。現在の郡山市の発展の礎が、まさにここに有った事が理解できます。
今回の参考資料:
・郡山市開成館リーフレット
・「安積疏水の水しるべ」 安積疏水土地改良区発行リーフレット
・「十六橋水門」 安積疏水土地改良区発行リーフレット
・国土地理院地図(電子国土WEB)
・ウィキペディア「安積疏水」
・「近代を潤す 三大疏水と国家プロジェクト」那須塩原市那須野が原博物館 平成21年9月5日発行
・広辞苑「第五版」岩波書店
(上掲写真は、南禅寺水路閣と第一隧道東口)
重要文化財は、「大津閘門及び堰門」「大津運河」「蹴上発電所旧本館」など24か所です。
(上掲写真は、大津閘門と旧御所水道ポンプ室)
「疏水」の意味は、広辞苑によると<①水を流すこと。②灌漑・給水・舟運または発電のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること。また、そのもの。多くは湖沼・河川から開溝して水を引き、地形によってはトンネルを設けることもある。琵琶湖疏水が有名。>と、記されています。
ちなみに「日本三大疏水」と言われるのは、①安積疏水(福島県)②那須疏水(栃木県)③琵琶湖疏水(滋賀県・京都府)に成ります。
今回は、福島県の「安積疏水(あさかそすい)」の関連施設を巡り、そこに建てられた石碑などから、明治維新後に、日本で最初の国家プロジェクトとなった、「安積疏水」について、見ていきたいと思います。
再度「広辞苑」にて、安積疏水を検索してみると、<福島県中部の猪苗代湖から取水し、郡山盆地を灌漑する用水路。新旧2本あり、1882年(明治15年)、1951年(昭和24年)それぞれ完成。>と説明されています。
このように其の水源は、猪苗代湖に成ります。したがって、当初は「猪苗代湖疏水」と呼ばれていました。
郡山市街地に鎮座する「開成山大神宮」の境内には、この安積疏水に関連した記念碑が建てられていますが、その一つに「安積野開拓顕彰碑」が有ります。
(開成山大神宮境内に建つ「安積野開拓顕彰碑」と碑陰の碑文を一部抜粋し書き写した。)
碑文には安積野開拓の目的のひとつ「明治維新により、その地位を失った士族に対する授産事業」の通り、二本松藩を始め、久留米藩、松山藩、土佐藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩、会津藩、棚倉藩の九藩が入植し、刀を鍬に持ち替え、想像を絶する困難と極度の窮乏に耐え、不撓不屈の開拓精神の基、初期の目的を達成したと、記されています。
石碑の立つ基礎部分には、入植した各藩の地元から運んだ玉石にそれぞれの藩名が刻まれています。
(安積野開拓顕彰碑台座の玉石には、入植した各藩の名前が刻まれています。)
尚、この「安積野開拓顕彰碑」と横並びに、「安積開拓の父」と言われる、「中條政恒翁頌徳碑」と戊辰戦争の戦火で焼失した町の復興を願う商人の中心となり「開成社」を設立、初代社長として開拓事業に尽力した「贈従五位阿部茂兵衛貞行翁之像」が、建てられています。
これらの記念碑が建つ、ここ「開成山大神宮」も、明治6年(1873)、大槻原(郡山市開成地区)開墾が始まった際、習俗の異なった人々の融和や慰安の場所として遥拝所が設けられました。明治9年(1876)には伊勢神宮の御分霊が奉遷され、「開成山大神宮」となりました。現在は「みちのくのお伊勢さま」と称されています。明治12年(1879)に安積疏水事業の起業式が行われ、内務卿伊藤博文らが臨席しました。3年後の明治15年(1882)「に安積疏水は完成し、通水式には、右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義、農商務卿西郷従道など政府高官が臨席して通水を祝いました。(開成山大神宮正面入口鳥居脇に建つ案内板より抜粋)
(開成山大神宮 東側鳥居ごしに社殿を望みます)
この開成山大神宮の東側には、開成山公園が広がていますが、その公園内に「開拓者の群像」と称する大きなモニュメントが建てられています。
(安積開拓の偉業をたたえる、日本芸術院会員三坂耿一郎氏作のモニュメント。平成4年10月に建立、塔の高さは17.6m。塔頂の鳥は、郡山市鳥のカッコウ)
(塔の右下には、中條政恒、大久保利通、ファン・ドールンらの像が並ぶ。)
そして、このモニュメントの前方石碑には、「安積野の開拓はこの地より創(はじ)まる」と題し、<かつて奥州路の小宿駅に過ぎなかった郡山は、明治の初期、この地の富商らが結成した開成社と、士族授産を目的とした明治政府直轄の大規模開拓により、太古以来の安積原野がことごとく開拓された。さらに明治十五年、有史以来はじめて猪苗代湖水をこの原野に東注した安積疏水の完成は、今日の郡山市発展の原動力となった。われわれは、この地に開拓精神発揚のシンボルとして「開拓者の群像」を設置し、先人に感謝しその偉業をたたえ、これを後世に伝えるものである。1992年10月 郡山市>と、刻んでいます。
さらに、この開成山公園の南西角、国道49号に面して1基の石碑が建てられています。
石碑上部篆額には、「開墾率先碑」と篆書体文字で揮毫されています。揮毫した人物は「内大臣正二位大勲位侯爵松方正義です。
この石碑は、旧久留米藩士で、安積郡に移住してきて、率先して開墾に一生を尽くした、「従五位勲四等森尾茂助」「正八位太田茂」の兩氏の、功績を称えるもので、碑文には開拓の推移が詳細に記されています。
開成山公園南側を東西に横断する県道6号を、西進すると道路は突き当りとなる。この突き当りの位置に建つのが、明治7年(1874)に建てられた擬洋風建築の「開成館」。最初は区会所や安積開拓の事務所として使われた建物ですが、現在は令和3年2月13日に発生した福島県沖地震による甚大なる被害により、公開が停止されていて、見学することが出来ませんが、敷地内に建つ「安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)」や「安積開拓入植者住宅」等は見ることが出来ました。
次に、開成山公園から南の方角約6kmの所、安積町牛庭に鎮座する「大久保神社」に向かいます。
郡山市の市街地から抜けた周辺にはまだ多くの田畑が残る地に、目的の「大久保神社」が建っていました。その名前の通り、明治維新の偉人「大久保利通」を祀った神社に成ります。大久保利道は、安積疏水事業を士族授産と結び付けて、国営農業水利事業を、日本最初の国家プロジェクトとして実現することに尽力しました。その遺徳を後世に伝えるため、愛媛開拓者や牛庭原地域の人々によって明治22年(1889)に創建された神社です。しかしその後、社屋の痛みが激しくなった為廃社とし、代わりに石碑の建立となりました。
(大久保神社、「故内務卿大久保公追遠碑」及び碑文を書き写した内容)
石碑上部篆額の「崇恵廣業」の文字は、実際は篆書体で書かれています。揮毫者は「正二位大勲位侯爵松方正義」です。撰文ならびに書は、鷹洲織田完之です。
猪苗代湖の水は、安積疏水が造られる以前は、全て会津地方に流れ、日本海へ注いでいました。猪苗代湖の東側には標高1,000m程度の山々が南北に連なり、壁となっていた為です。郡山は阿武隈川に向かって傾斜して水利の悪い丘陵地帯の為、荒涼とした安積原野が広がった土地でした。
安積疏水工事の取っ掛かりは、猪苗代湖の唯一の島「翁島」の西側にある入江の様な「銚子の口」から流れだす「日橋川」の水量を、「戸の口」にて十六橋に水門を建設して、会津盆地に流出する水量を調節出来るようにしました。
(上掲の写真は現在の「安積疏水十六橋水門」です。現在は猪苗代湖の洪水を防止する大事な施設として利用されています。)
十六橋の西側橋詰の広場に、数基の石碑と共に建つ1体の銅像が有ります。
(長工師ファンドールン像と碑誌碑文)
オランダ人長工師コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン先生は、明治5年(1872)35歳の時、明治政府の招きで来日、土木局長工師としてそれまで幾つか出ていた疏水開鑿ルートを、明治11年11月の実地巡検と、西欧の技術的計算の下、立証をしました。銅像の脇に昭和54年10月に建てられた碑誌では、「安積疏水の生みの親」と称しています。
この銅像には、ひとつのエピソードが有ります。<第二次世界大戦の敗戦が色濃くなった昭和19年、軍部は軍需用資源として金属の強制供出を発令し、一般家庭社寺仏閣などから徹底して金属が回収されて行きましたが、疏水常設委員の渡辺信任は、付近の農家から人々を集め、この銅像を秘密のうちに付近の山に埋めて隠し通し、終戦後の昭和21年9月末に、山中から掘り起こして再建したものです。>
次に、安積疏水事業の目的のひとつ、水力発電開発について見ると、最初に猪苗代湖との落差を利用して出来たのは、沼上発電所に成ります。
「沼上発電所」は、郡山絹糸紡績株式会社により設置され、明治32年(1899)6月17日に運転を開始しています。日本で初めての高圧送電を利用し、郡山市内まで送電され製紙業や紡績繊維産業の発展に寄与しました。
写真左側に写る滝は、猪苗代湖より流れ落ちる安積疏水に成ります。
国土地理院地図にて、現在の安積疏水路の流路を見ていくと、猪苗代湖の東岸、上戸浜の北端近くに「安積疏水取水口」と記されています。ここに扇形に見えるのが「上戸頭首工」で昭和37年(1962)に完成しています。これは食料増産の時代を反映して、従来の疏水では賄いきれなかった区域に対する開田を行う為に、昭和18年「新安積開拓建設事業」によるもので、従来の取水口が有った山潟水門から移りました。
新たな水路は、地図上では破線で記されている通り、その殆どがトンネルに成っています。
「上戸頭首工」から取水された猪苗代湖の水は、小坂山の山中で東に1400m、その後東南東方向に4000m、鎌倉山の下を流れ、田子沼にて「新安積疏水」を分流しています。安積疏水本流はそこから更に東方に800m程流れ、中山峠の北側標高500m付近で、導水管を流れ落ち「沼上発電所」のタービンを回しています。
「田子沼分水工」は、地図上で破線で記されていると様に、地下施設に成っています。山間の雑木林に有る建物の入り口から入り、地下に向かう階段を下りていくと、コンクリートに囲まれた部屋の底に水がたまり、側面に水路の丸い口が開いているのが見えます。
(田子沼分水工の内部。地下の部屋に安積疏水の水を分岐する施設が有ります。)
一方、沼上発電所を出た水は、五百目川に注ぎますが、すぐまた取水され今度は東北東方向に1600m程トンネル内を流れた後、大正8年(1919)に運転開始した「竹ノ内発電所」のタービンを回し、その後直ぐ又取水されてトンネル内を東南東方向に4700m程流れ、熱海町熱海に大正10年(1921)10月運転開始した「丸守発電所」に至ります。
(丸守発電所は当時の郡山電気が建設した、安積疏水の最下流に位置する発電所)
丸守発電所から流れ出た水は、一度五百目川を流れますが、直ぐ又下流に設けられた「熱海頭首工」にて取水されます。この後安積疏水は山際を流れ、熱海町安子島で第一分水路と分岐、その後も山際を南流する安積疏水は、第二・第三・第四分水路等に分流しながら第七分水に至り、郡山市西部の水田を潤しています。
(安積疏水第一分水路)
また、田子沼分水工にて分岐された、新安積疏水は安積疏水の西側の山々をトンネルで貫き、郡山市の南隣、須賀川市の灌漑に供しています。
最後に、安積疏水の丸守発電所の下流、熱海頭首工の近く、五百目川の右岸に「安積疏水神社」が祀られています。
明治12年(1869)、安積疏水開鑿事業に先立ち、その無事完成を祈願して建てられた神社です。当時は石造りの祠でした。工事期間中における作業の安全や事業の早期完成を主に祈念し、工事に従事する作業員たちが、熱海を通って現地へ向かう際には、必ず立ち寄ったとされています。
昭和10年(1935)には、安積疏水事業に尽力された、大久保利通、松方正義、伊藤博文の御霊も合肥されました。
この「安積疏水神社」の境内にも何基かの石碑が建てられていました。そのうちの一基に「三社功績碑」と題額に有りましたので、碑文を書き写しました。
碑文の最後に、「昭和廿余年十月一日疏水記念日に」として、「安積疏水普通水利組合常設委員 渡邉信任謹記」と刻されています。
内容的には、新安積疏水工事に携わった、「鹿島建設」「間組」「鉄道工業」の三社の業績を、永遠に告げるため建碑されたものです。
こうして安積疏水事業の内容を、石碑に刻された内容等で読んでいくと、明治維新当時に進められた、安積原野開拓の難事業の様子が、感じ取れました。現在の郡山市の発展の礎が、まさにここに有った事が理解できます。
今回の参考資料:
・郡山市開成館リーフレット
・「安積疏水の水しるべ」 安積疏水土地改良区発行リーフレット
・「十六橋水門」 安積疏水土地改良区発行リーフレット
・国土地理院地図(電子国土WEB)
・ウィキペディア「安積疏水」
・「近代を潤す 三大疏水と国家プロジェクト」那須塩原市那須野が原博物館 平成21年9月5日発行
・広辞苑「第五版」岩波書店
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